私と書道

1、私について

私は秋田県の男鹿市という小さな田舎で

書道教室を一人で営んでいる三浦美鈴と申します。

「 三浦きせん」は書道の雅号(ガゴウ)…書道のニックネームのような名前です^^


私は

今では、子供のお生徒さんも20名以上、

大人のお生徒さんも、皆さん辞めずに続けて下さる方ばかりで、

男鹿の地元の方々に囲まれて、ほのぼのした毎日を送っています。

私は、現在

この「今」をとても大切にかみしめて過ごしています。

この幸せを手に入れるまでの、私の過去は「のほほん」どころか、

「いつも寂しく、悲しみに包まれた暗いトンネルを、

手探りで歩み続けた人生」

「転んでも、辛くても、大声で泣く事も我慢し続けてきた、そんな

悲しみがいつも心の底に流れ続ける人生」の連続でした。

私は、小さなころから今まで

「アキラメル」という事を知らずに、ずっとずっと、

私の短い脚の速度で 思いっきり一生懸命生きてきました。

『明日の子供のご飯がない! 炊飯器がない! でも絶対いいことあるもん!!』

これは実話です。この気持ちで私は駆けて、そして今も走り続けています。

静かなる、思いあふれる思い が私にはあります。

書と共に歩む 

思いは言葉を越えていく

書道は私を救ってくれる

私は本気で信じてます。

そんな私のストーリーを聞いてください。

2、逃げるように帰ってきた故郷

私は今から7年前、離婚をきっかけに、

生まれ故郷の男鹿に、

『明日、一か月検診を受ける予定』だった乳飲み子の赤ちゃんを

抱えて3歳の長男と0歳の次男を連れて、

逃げるように帰ってきました。

しかし、それは私にとっては、自由の扉への第一歩でした。

公民館でボランティアで始めた

「自分の言葉を書く会」をきっかけに

その活動が、新聞に、テレビにと放送されました。

こんな田舎の公民館がテレビに放送されるなんて!!と、

市役所の皆さんも、テレビの前でスタンバイして生放送を見てくださったと

教えてもらえたときは、本当に生まれ故郷の温かさと、

ここに帰ってきてよかった!!!

私はこの感謝の気落ちを絶対、行動で表して見せる!と決めました。

みんなとても、あたたかかった。

傷つき故郷に帰ってきた私にはどんなに

嬉しかったことか。

3、自分自身に問い続けて来た幼少期


自分はどんな空間に身を置きたいのか?

私はどんな場所に身を置きたいんだろう?

私はずっとずっと子供の頃から問い続けて来ました。

私の家族はとっても不器用な人達の集まりでした。

父は仕事で忙しくいつもイライラし、根は優しいのは伝わるのに、

家族にキレる人でした。怖い。私に植え付けられた感情です。

母は、仕事を一生懸命に朝から晩までし、

なかなか、かまってあげられなくてごめんねと、何度も何度も謝る人でした。

すごく優しい母でした。

 しかし、

たまの休日はいつも喧嘩の両親。なぜ別れないのか疑問に子供心に思っていたものです。

どうして別れないのだろうと不思議でした。

嫁姑問題。

おばあちゃんとお母さん、どっちの味方なんだと問われる日々。

私はどちらも好きでした。愛している人が、私の愛している人の悪口を聞く事は

辛い事だと感じました。

家の中はピリピリしている。誰もお互いの事を自ら話す人も無い。

会話もなく笑いもない。そんな日常が当たり前の家でした。

でも、

一人一人、それぞれ単体だと、みんな優しく私に接してくれる。

一人一人が優しいのを私はすごく知っている。

ただ、一緒に暮らすって大変なんだと子供の頃から肌で知りました。

ただ、ひたすら不器用な家族でした。

では、どうする

自分はどんな空間に身を置きたいのか?

私はずっとずっと問い続けて来ました。これが私の原点です。

私が出した子供ながらの答えが、

家から出る 

でした。

それを目標に生きていくことにしました。

では、この計画を実行するには私に何が出来るだろう?

そうするにはどうしたらよいのだろうか?

そんな構想を模索する幼少期を過ごしました。

 4,ふいに訪れた書道との出会い

転機が訪れたのは小学2年の あの一言からでした。

「習い事を皆していて、放課後、遊ぶ人がいない。だから私も何か習おうかな。」

そんな 一言から 始めた書道。

この書道がこんなにも私にチャンスと力をくれる出会いとなるとは誰が思うでしょうか?

とにかく自信がない子供でもありました。

背も小さく、

何より 発言するのが 苦手で、いつもにこにこしている静かな静かな子でした。

いじめられもしました。

でも、私にはいじめられても、相談するお友達がいつもいました。

家族も話を聞いてくれました。

「いじめ」その行為自体を、みんなで問う時間をもってくれた恩師がいました。

そして、私も「いじめ」をなくすには私は何が出来るか

挑戦する機会を小学生の時にでき、その後の人生にも大きく響いている気がします。

では、どうする?

自分はどんな空間に身を置きたいのか?

自分の中からそんな問いかけが、また聞こえます。

私がしたチャレンジ

1, 勉強で上位になる。  

  いじめはなくなりませんでした。発言しない私には合わない方法でした。

2, 書道が上手くなる。
一目置かれるようになりましたが、いじめはなくなりませんでした。

3, バスケが上手くなる。
キャプテンになったことをきっかけに

  いじめっ子とのパワーバランスが逆転し、いじめはなくなりました。

そして、周りの私への対応も変化することも、身をもって知り

自分に合った方法で、アプローチしていけば、

人の対応が変わると思った瞬間でもありました。

こんな無言のチャレンジが出来たのも、優しい友達のおかげと

学校の方が平和と勘違いさせるほど、

ピリピリとした家庭環境の居心地の悪さのおかげさま。

そんな風に私はひねくれた形で、家庭環境に感謝していました。

いつも心の支えがどこかに必ずありました。

声なき者を見捨てない、強く温かい人たちを私は決して忘れません。

絶対、私に出来る事で皆へ恩をかえそう、その心が私をいつも強くしました。

5,私の思いを叶えてくれるツール:書道

そんな小学生活の中、引っ込みがちな私には

黙々と書いて時を過ごせる書道は、

とても 苦のない無心になれる最高のツールでした。

でも、字にすら自信がなかったです。

でも、自信って必要かな?と最近は思います。

私は、自信がないから追い続けることができました。

最高の自分を。

だから、書く事を辞めたいと思ったこともないし、

自分が 上手い と思える事も、

一度も無いけれども、楽しいチャレンジの連続の人生を書道にもらっています。

書道を通して見る世界は、とても澄んでいて、そして楽しいです。

 私が習った最初の書道の先生は、

けなしもしなければ、褒めもしない 厳しい書道の先生だでした。

そして私は、何も言わない先生が

怖くもあり 好きでもありました。 評価しない。批判しない。

自分とひたすら向き合う。

私は、ぼんやり「書道の先生になりたいなあ」と思ったものでした。

あまり、将来こうなりたい!!みたいな、キラキラしたものを思い描けなかった私の

唯一の、なりたかったものかも、、、

美鈴ちゃん書いて^^!お願い!

と、先生から、おばあちゃん達まで、筆の事はみんなに頼まれ、

喜ばれ、人の役に立てている、と

実感できる貴重な私の財産でもありました。

気付けば、私は秋田県の書道展では

毎年一番の賞を必ずとる「あの子」。

新聞に必ず載る「あの子」になっていました。

忙しくて旅行に行けない家でもあったので。

どこか遠くに、行きたい時は、

『書道』を方法に使いました。

書道は私を旅行につれだしてくれる事を受賞して初めて知りました。

受賞者、特に一番をとった人は授賞式に必ず呼ばれます。

そして、それは同時に 

大好きなお母さんと二人っきりで出かけられる貴重な機会でした。

人の何倍も書いて

書いて 書いて 書いて 書いて。一番になること。

書道は私の力で

大人を動かせる武器となっていきました。

そして、家族も喜んでくれます。

高校生の時に書道部門で秋田県の代表に選ばれました。

高1で選ばれるのは秋田県で初の事と聞きました。

しかし、手本がないと書けない私は本当に上手いのか?

ただ真似るのが上手いのか?

高校生の私は悩み、夢もわからず。

県外の書道科のある、教育学部の大学に進学しました。

「家から出たい」という私に望みを、書道と努力が叶えてくれた瞬間でした。

大学4年間、書道の世界の奥深さを知り、一気に学ぶ虜になりました。

「うまい下手ではないんだ」

そして、技術の探求を高めあう友に会いました。

6,私に挑戦するエールをくれた第二の書道人生


大学卒業後、書道の先生になれるとは思ってもいなかった私は

何になりたいかわからず、就職につまずきもがいていました。

その時「おじいちゃんが私にかけてくれた言葉が私を救ってくれました」

努力し続けるお姉ちゃんを見ています。誇りに思っています。

上手くいかないときは、

あなたの進む道はそちらではないよ、と神様が教えてくれているだけ。

今の努力を続けなさい。必ず道が見えてきます。大丈夫。

そんな中、他県から書道教諭のオファーが来ました。

人見知りの私には、緊張と戸惑いとチャレンジの連続でしたが

私の人生の大きな節目ともなりました。

それは、なぜか。

今まで、チャレンジしてこなかった事をしなければ行けなくなったからです。

人前に立つ事。自分の意見をいうという事。

苦手分野にチャレンジする。

私は、今でもそうですが、人前に立つのが超苦手。あがり症。

書く事に自信がないからこそ、書道を続けて来ている自分。

一人が落ち着くからしている書道なのに、大勢の人の前に私が立つなんて。。。

何より、高校で書道を選択した時に、

みんな、なんとなく書道の時間を過ごしている雰囲気満載で

「学校で教わる書道はつまらない」そんなイメージを、

自分自身がもっていました。

私が赴任した学校は私立の中高一貫校でした。

中学1,2年生は週1時間、必ず「書道」の授業があります。

中3~高校生は「選択者」のみが書道を受講するシステムでした。

ドキドキしながら、教壇にたった私が最初に直面したのが、

私が予想した通りの現実でした。

1,つまらなそうな目線で、ただ机に座っている子供達

2,中3~高3の書道選択者がほとんどいない

3,自分自身が書道を中学校の時に「授業」として

  本格的に授業を受けた経験も無いので、なお更、おどおどしている自分

そもそも、教育実習以来、教員の経験がほとんどない無い。

たった一人の書道専任教諭に着任し、

他県で誰に相談したらよいのかもわからない状況のスタート。

笑顔の裏で、心の奥底は孤独との戦いでした。

その時も子供の時に聞こえた声が頭に響いてきます

 自分はどんな空間に身を置きたいのか?

書道が楽しいと笑ってくれる人達に囲まれた空間にいたいなぁ。。。

 そう心が答えました。

私は先の3つをクリアするために様々な工夫をしていきました。

手元が見えるスクリーン導入。

作品を必ず飾る。

みんなで合作を作る。

一対一の時間を必ずとる。

気づけば、3年後、ほぼ全員が選択する人気選択科目「書道」に。

クラス数も倍に増えていました。

そして何より、

「書道の時間が楽しみ」

「先生の字が私たちは好きだから、

完璧な一枚をコピーして渡されるよりも生のお手本がほしいよ。」

生徒達の温かい一言が、20年以上書道を続けて来ても自信が持てなかった私を

一瞬ですくってくれました。

私はその感謝を表すためにもさらに教師人生に打ち込みました。

7,大どんでん返し また振り出しへ、、、

しかし、

両親の夫婦生活を見て、結婚は愛情より、条件かな?と思って結婚した私は

結婚、妊娠を機に体調を崩していきました。

週末婚でしたので、一人の妊娠期、つわり、仕事の量、

育児休暇中の代わりの先生による嫌がらせと、いじめに精神を崩し、

自ら天職だと思っていた職を、たった一人の病室の中、辞職願を書いて退職しました。

その後、夫婦生活も破綻し、実家へ帰ってきたのでした。

あんなに輝いていた書道道具たちがホコリに埋もれた瞬間でした。

しかし、毎日朝から夜中まで、学校の事務仕事で自らの子供と過ごす時間を

体験してこなかった私には、貴重な子育て時間の復活となりました。

そして、地元の人達は

「書道で新聞に名前が載っていたあの子」がまだ、書道を続けていたと喜んでくれました。

 どんなに私を勇気づけたことか。

8,再び家族と向き合う

しかし、実家に10年ぶりに帰ってきた私は

父や家族の確執に久しぶりに触れる機会にもなりました。

そんな中、大好きな母の癌がわかりました。

そんな折に、祖母の死をきっかけに父の暴言がひどくなりました。

その時、子どもの時に聞こえた声が頭に響きました。

自分はどんな空間に身を置きたいのか

その声に従い、

「私はもうお父さんに振り回される人生は送りません!」

お父さんがおじいさんに、暴言を振っている姿をもう子供にみせたくない。

つよい、気持ちが湧きあがりました。

私は父を警察に通報し、母と子供を連れ家を飛び出ました。

私のような人を人知れず保護している人がいることを初めて知りました。

地元に恩返ししよう、そうまた決意する瞬間がまた一つ増えました。

父はその時初めて自分の行為に向き合い、自殺を決意したが、死ねなかったそうです。

そのころ、私と母と子供達は、何もない空間で明日のお米もない中でしたが、

自分達で新たな一歩を踏み出したという喜びを実感していました。

私も、私の人生を父のご機嫌取りに使う事をやめました。

母も、自分の人生をどう生きたいか改めて考えました。

細かな部分は省きますが、

結果、

私はお父さんと、お母さんを本当に、尊敬している!!

お父さんは、全てを失いかけた時、自らの努力でかわっていった!!

あんなに亭主関白たったのに!油をひいて炒める事も、知らなかったのに!

今では母の介護、食事、掃除、そして、手をつないで母と散歩している。

そして、この間の夜。酔っぱらいながら、

「お母さんが久しぶりに良く食事をとった!お前の産んだ子供のお陰だ!

孫のお陰だ!ありがとう!ありがとう!」

私は産まれて初めて父から感謝の電話をもらった。

電話の内容は、

実は母は、ここ一週間以上、体が食事を受け付けない状況だったこと。

父も食事の工夫してみていたが、どうにもならなかったこと。

日常でも、倒れたり吐いたり、その度に病院へいっていたこと。

今日、私と孫に会い、会話し、外食に行った先の

あの食事が一週間ぶりの、ちゃんと喉を通った食事であった事。

すごい勢いで話していた。

そういえば、お母さんが、「食べれる!!食べれる!」と笑っていたことを思い出した。

お父さんは、一人で悩み、抱えていたのかと思った。

私に心配をかけまいと2人とも黙ってその状況化で頑張っていたことを初めて知った。

私も、お母さんに些細な病気でも、うつすまいと、実家にいくのを遠慮していた。

私達はやっぱり親子だと思った。

短い3分の電話の後私は泣いた。

とても切なかったし、とても嬉しかったのだ。

今まで父が怖かった。どう接したらよいかわからなかった。

何かが変化し始めた。

お父さん、幸せに生きて!感動をありがとう!お父さんの子であることを誇りに思う!

母が癌になって、4年。

どんどん、衰弱していく姿を毎回みる今。

お母さんは、毎度、ありがとう。ありがとう。と私に言ってくれる。

あなたは本当に頑張っている。沢山の事を貴方から学んだ。

天才っていないんだね。努力なんだね。

孫が可愛いよ。本当にいい子だね。

お父さん、全部やってくれる。有り難いよ。

今までお母さんは、お父さんの 悪いと思った所にだけ、

焦点を当てて生きてきた事がわかったよ。

今すごく幸せだよ。

毎日毎日、お母さんは電話で言う。

「病気になったのに幸せなの?!あんなにお父さんと

仲悪かったのに、今頃優しくされて幸せなの?!」

理解できなかった私の疑問をぶつけた。話した。

お母さんは、自信満々に応えた。

今、すごく幸せ。全部ありがとう。

そんな両親の変化した姿をみて私は奇跡をみているようだった。

こんな事ってあるのかな、と。

そして、誇りに思った。

こんなに、あたたかな思いの詰まった両親の子供に産まれた事を。

だから、私は決意した!!

9,書道で感謝と幸せを届けるぞ!!

私は、私を今まで救ってくれた 幸せにしてくれた書道で

沢山の人の、助けになる!

そして、成功してみせる!地元にも私が成功することで、人を呼んで貢献する!

お母さんにその姿を見せるんだ!お母さん、ありがとう!

私の書道の道を何も言わず支援してくれてありがとう!

お母さんのおかげなの!すごく感謝してるの!感謝を形にするって決めたの!

お母さん、まだ死なないで!死なないで!!生きているうちに。

お母さんがいつも応援してくれた書道で喜んでもらう!

書道で笑顔になってもらう!

私みたいに、書道で幸せを感じる人を応援するよ!

書道を楽しく学びたい という全ての人に、だからこそ私の事を知ってほしい!

私はゴールを超えていく。